私が3歳の時に2歳年下の妹が生後6ヶ月で肺炎のため他界しました。
3歳でしたが、大きなガラスの点滴瓶、最期に妹にスプーンでお水を飲ませたことは覚えています。
妹みたいに赤ちゃんの時に死んじゃうのはイヤだと思っていました。
小学校の卒業文集には、小児科のお医者さんになる。と宣言していました。
何とか医学部に進学し、5年生の臨床実習(ポリクリ)の時に外科の実習で手術室に入りました。
自動ドアが開いて、大きな無影投があって。モニターがピ・ピ・って鳴ってて。テレビみたい。血をみても、驚くわけでもなく、もっと近くで手術が見たくて、清潔な手術台に近付くものだから、そこの学生不潔だろ、おまえは。離れろ。と怒られました。
一度は離れるのですが、手術が見たくて、近付いては怒られていました。
変な女子学生だったようです。
貧血で倒れるくらいの方が、かわいげがあったかもしれません。
両親は、小児科に進むもの思っていましたが、私は、6年生(医学部は6年間)の時に、卒業したら、外科に入局すると宣言しました。
まだ、外科の女医は非常に少ない時代だったので、父はとても心配していました。
でも、自分がこうと決めたら誰の言うことも聞かない頑固な性格・・・・父が折れました。
いろいろありましたが、外科は私の天職だと思って頑張ってやってきました。
今でも、天職だと思っています。
私が研修医のころは女性の外科医が珍しかった時代ですから、結構大変でした。
まず、ちび。身長150cmしかありません。
手術は今でもお立ち台に上がって行っています。手が小さい。おなかの手術の道具は私の手には大きいものが多いです。
腹腔鏡の手術の道具もしかり。自前で腹腔鏡のピンセットとかはさみとか揃えました。
手が小さいので内視鏡(カメラ)も同級生の男の子たちより上達するのに、少し時間がかかりました。
今は、この小さな手で短い指でいろいろな内視鏡治療を行っています。
胃癌を早期に見つけて胃を切らずに治す。これも私の得意分野の一つです。
メッセージ
開業前は梅田にあります、健保連大阪中央病院に外科医として勤務していました。
梅田のど真ん中の都会の病院でも、
癌が進行した状態で病院を訪れる方がいらっしゃいます。
症状があっても、検診で異常を指摘されても、仕事が忙しかった、
悪い病気と思わなかった等。自分で気づいているのに。
もっと気軽に病院に足を運べないのはなぜ?
はずかしさだったり、怖さだったり、時間がかかることだったり。
いろいろな問題をすべて、クリアーしますよ。
まず、私とスタッフの顔を見に来てください。そして、不安を吹き飛ばしてください。
おおたきく子クリニック 院長
太田 喜久子